今週の出来事2009/10/03 11:45

火曜日

15:00からMTG。明日1.0のリリースだというのに、今の段階でまだ、未成熟な機能追加、新モジュールの入れ替えがうまくいっていない件について報告される。皆頑張ってくれているのは十分理解しているつもりなのだけれど、それでもスケジュールは遅れに遅れ、辛いところだ。1.0を出すのを延期しようかとも思ったけれど、士気にも関わるし、期待値とのバランスを考えて、「重大なバグが本体側には無い」という条件で出すことに同意。

1年前の段階で、このレベルまで出来ていればよかったのだけれど。本来目指した品質に達するには、あと1年は必要な気がしてくる。そう思えるだけなのかもしれないが、多機能を実現する、複雑なソフトウェアの開発は本当に大変だ。

夕方から、終了報告書の§4を仕上げるべく、徹夜。切り貼りをしているとはいえ、やはり、50ページ以上のものをワードでやるのは結構大変。


水曜日

徹夜明け、朝にドラフトを確認送信して、帰宅。

本当は今日は診察予約が入っている日だったのだけれど、リフレックスは結局、服用中止した状態だし、連休明けで病院も非常に混むと言われていたので、翌週に予定を変更してもらえないか電話。そして寝る。

目が覚めると、両手の前腕部が筋肉痛で、手指の関節も痛む。

報告書のチェック結果を確認して、また寝る。


木曜日

左下の親知らずを抜いた。

当初は、先週の金曜日に予約を入れていたのだけれど、結局、例の相談を入れるために時間的余裕が無くなり、こちらの予定を変更してもらった。

とりあえず、睡眠時間だけは確保した状態で歯医者。

下の親知らずを抜くのは今回が初めてだったのだけれど、ちょっと歯が出てきていた状態だったにもかかわらず、意外と苦戦しているようだった。14:00に入って、終了して受付に戻ったのは15:45頃。

抜けた歯はもらって帰ったのだけれど、抜く過程で歯を分割していて、その断面を見ると、C2程度の虫歯が浸食しているのがよく分かる。虫歯の標本として使えそうなくらいだ。

麻酔がちゃんと効いていたのと、痛み止めのおかげで当日はそれほど痛みは無し。


メールをチェックすると、終了報告書の他に、自己評価表の提出を求められていた。もちろん、知っていて忘れていたふりをしていただけなのだが、改めて中身をみると、どれも微妙な質問内容で、ちょっと簡単に書くことはできないと思い、その旨電話。金曜日は創立記念日で休みらしく、月曜までに出してくれればokとのこと。中間評価会では適当に書いて出して、ちょっと困ったことになった記憶もよぎる。

元気も無いので寝ることにした。


金曜日

朝に再度歯医者で消毒。順調ですね、ということですんなり帰ってきたものの、昼ぐらいから熱が出てきた。抜いた場所が腫れてきたというわけではなく、奇妙だけど、痛み止めが解熱効果もあるはずなので、飲んで眠る。

途中目が覚めると、手足の筋肉がこわばっているのか、弛緩しているのかどちらかわからないけれど、うまく動かせない。身体の方も熱を出しているようで熱い。今週前半の無理の反動も出たのかもしれないな、と思い。そのまま寝る。

週末2009/10/04 19:03

金、土曜の丸々2日間をかけて自己評価表の記述に取り組む。

4~5ページだけれども、かなりの精神力を要する作業。
自己アピールが大好きな人ならば、この仕事もスイスイはかどるのかもしれないな。

僕はもともと自己アピールが好きなタイプではないし、この場合は自己といっても、自分が含まれるプロジェクト・組織のアピールなので、なおさら想像力を活性化する必要がある。事実に即して正直に書く原則の下で、ネガティブな事情は出来るだけ避けつつ、それをカバーするように成果をアピールする作業は、2つの二律背反の状況を抱えるものである。また、一字一句を確認しているときにも、評価会のことが想像されて必要以上にドキドキする。

かえって自分が絡むから、非常なストレスを感じるのであって、もし、全然関係ないものに対して作業するのであればゲームのようにむしろ楽しんでできるのかも。そういう意味では、今の僕にはリーダシップとか、総責任を持つとかの能力が十分存在しないと言える。無くなってしまったのか、もともと無かったのか。


日曜日

夕方にコテージに行って、進路の件について相談に乗って貰う。
15分くらいのつもりだったのだけれど、結果的に1時間ちょっと話しをしてもらい、申し訳ないことをしてしまった。
いろいろ考えていたことについて、ある程度は整理出来たので、今週はこれに筋道を付けてゆくことにしようと思う。

初めは無視、後には出る杭として打たれるもの2009/10/06 03:24

昨夜、ふと話題になったこと。

人と違う考えを持った人は何故、周囲から受け入れられずつぶされるものなのかな?

という問いに対して、改めて考えてみた。


周囲、つまり世間は、ちょっと違った考えを持つ人を積極的につぶしたりはしない。ただ受け入れない、無視をするのみ。

そこで、大抵ほとんど人は、自分がおかしいのかな?と思い直して、考えを改める(そしてそれなりに幸せになれる)

少数の人は、それでも自分の考えを変えない、変えられず、主張をし続ける。でも、無視されるので、途中で自壊してしまう。つまり、つぶされるのではなく、自分で支えきれなくなりつぶれる。

さらに少数の人は、それでも自己の主張をし続ける。自分が死ぬか、認められて、受け入れられるまで。



ところで、以上の区分とは相関しないけれども(どのフェーズでもありえる)、最初は人と違った主張を持っていたのだけれど、それがだんだん認められ、受け入れられるようになる、ラッキーなケースがある。

そうやって、主張が一旦、世の中に受け入れられるようになると、急速に仲間を増やし、盛り上がってゆく過程がある。

世の中で一定の認知をされるようになるのだけれども、今度はそれを受け入れられないと、拒絶反応が返ってくる(つまり、出る杭として叩こうとする)

拒絶反応の大きさは、認知度と、その主張している事の過激度に比例しているように思える。極少数派であったときには、無視されてすんでいたようなことも、認知度が上がると無視されず、大きな拒絶反応として返ってきてしまうことになる。

ネガティブに考えるならば、世の中は、最初は無視し、後には出る杭として打つ、というものなのだろう。

ポジティブに考えるのであれば、最初は誰も感心が無いのだから、多少の過激さはむしろ主張をアピールする力として望ましく、後にそれがもし受け入れられる過程に入ったのであれば、戦略を変えて、多数派が受け入れられるようなものに、主張を刈り取る必要がある、ということなのかもしれない。

認知度が向上したと言っても未だ少数派、圧倒的多数派から見みると自分たちを侵す不遜な存在だと認識されてしまうことは避けられない。やり過ぎは禁物。


ここまで考えてみて、そういえば、これは、宗教が勃興して、世の中に広まってゆく過程を説明しているような気がしてきた。

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