初めは無視、後には出る杭として打たれるもの2009/10/06 03:24

昨夜、ふと話題になったこと。

人と違う考えを持った人は何故、周囲から受け入れられずつぶされるものなのかな?

という問いに対して、改めて考えてみた。


周囲、つまり世間は、ちょっと違った考えを持つ人を積極的につぶしたりはしない。ただ受け入れない、無視をするのみ。

そこで、大抵ほとんど人は、自分がおかしいのかな?と思い直して、考えを改める(そしてそれなりに幸せになれる)

少数の人は、それでも自分の考えを変えない、変えられず、主張をし続ける。でも、無視されるので、途中で自壊してしまう。つまり、つぶされるのではなく、自分で支えきれなくなりつぶれる。

さらに少数の人は、それでも自己の主張をし続ける。自分が死ぬか、認められて、受け入れられるまで。



ところで、以上の区分とは相関しないけれども(どのフェーズでもありえる)、最初は人と違った主張を持っていたのだけれど、それがだんだん認められ、受け入れられるようになる、ラッキーなケースがある。

そうやって、主張が一旦、世の中に受け入れられるようになると、急速に仲間を増やし、盛り上がってゆく過程がある。

世の中で一定の認知をされるようになるのだけれども、今度はそれを受け入れられないと、拒絶反応が返ってくる(つまり、出る杭として叩こうとする)

拒絶反応の大きさは、認知度と、その主張している事の過激度に比例しているように思える。極少数派であったときには、無視されてすんでいたようなことも、認知度が上がると無視されず、大きな拒絶反応として返ってきてしまうことになる。

ネガティブに考えるならば、世の中は、最初は無視し、後には出る杭として打つ、というものなのだろう。

ポジティブに考えるのであれば、最初は誰も感心が無いのだから、多少の過激さはむしろ主張をアピールする力として望ましく、後にそれがもし受け入れられる過程に入ったのであれば、戦略を変えて、多数派が受け入れられるようなものに、主張を刈り取る必要がある、ということなのかもしれない。

認知度が向上したと言っても未だ少数派、圧倒的多数派から見みると自分たちを侵す不遜な存在だと認識されてしまうことは避けられない。やり過ぎは禁物。


ここまで考えてみて、そういえば、これは、宗教が勃興して、世の中に広まってゆく過程を説明しているような気がしてきた。

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