最新の5.1系MySQL利用においては、Linux I/Oスケジューラーの変更は必要ない2009/10/17 22:22

Linux Kernel 2.6において、デフォルトのI/OスケジューラーがCFQに変更された時に、MySQLなどDBの書き込みスレッドがCFQによって待たされる結果、性能低下が見られる現象があるので、スケジューラをdeadlineに変更した方が良い結果が得られる。という話があった。

http://mowa-net.jp/~amedama/mt/2006/11/io_scheduler.html

その後、今年になっても、その説を継続的に支持する記事がMySQLのエンジニアの方の記事で掲載されてた模様。

http://www.mysql.gr.jp/mysqlml/mysql/msg/15009
http://d.hatena.ne.jp/yohei-a/20090330/1238377879

しかし、先日この著者ご本人とお話しする機会があり、聞いてみると、5.1系の最新のInnoDBエンジンでは、read/writeともにスレッドの本数が増やされたため(以前は一本づつしかなかった)、I/Oスケジューラーは、デフォルトのCFQでも性能的に問題ないとのこと(deadlineによる効果が見られなくなった)。


こういう細かい性能チューニングの話は更新が早くて、あんまり古い情報を鵜呑みにしても、昔の知識を元に盲目的に動くのもダメなんだなあと痛感。そういう意味では、表面的な新技術の流行に目を奪われるのではなく、技術的な根幹に常に目を向け続けないといけないのだろう、と思う。

もちろん、流行にうまく乗ってやり切る、というのもアリではあるが、それが新しいものを生み出している、と勘違いするようではいけないし、表面的なものを追求するならば、それで極める必要があると思える。中途半端に技術的な深層を調べてみました、というのはたぶん一番良くない(才能の浪費)。

技術的な流行について行けないと思うのであれば、それならばそれは諦めて、技術的な深層、根幹の方を徹底的に追求するか、思想としての技術を理解した上でマネージメント業に徹する、というほうが良いだろうと思う。

初めは無視、後には出る杭として打たれるもの2009/10/06 03:24

昨夜、ふと話題になったこと。

人と違う考えを持った人は何故、周囲から受け入れられずつぶされるものなのかな?

という問いに対して、改めて考えてみた。


周囲、つまり世間は、ちょっと違った考えを持つ人を積極的につぶしたりはしない。ただ受け入れない、無視をするのみ。

そこで、大抵ほとんど人は、自分がおかしいのかな?と思い直して、考えを改める(そしてそれなりに幸せになれる)

少数の人は、それでも自分の考えを変えない、変えられず、主張をし続ける。でも、無視されるので、途中で自壊してしまう。つまり、つぶされるのではなく、自分で支えきれなくなりつぶれる。

さらに少数の人は、それでも自己の主張をし続ける。自分が死ぬか、認められて、受け入れられるまで。



ところで、以上の区分とは相関しないけれども(どのフェーズでもありえる)、最初は人と違った主張を持っていたのだけれど、それがだんだん認められ、受け入れられるようになる、ラッキーなケースがある。

そうやって、主張が一旦、世の中に受け入れられるようになると、急速に仲間を増やし、盛り上がってゆく過程がある。

世の中で一定の認知をされるようになるのだけれども、今度はそれを受け入れられないと、拒絶反応が返ってくる(つまり、出る杭として叩こうとする)

拒絶反応の大きさは、認知度と、その主張している事の過激度に比例しているように思える。極少数派であったときには、無視されてすんでいたようなことも、認知度が上がると無視されず、大きな拒絶反応として返ってきてしまうことになる。

ネガティブに考えるならば、世の中は、最初は無視し、後には出る杭として打つ、というものなのだろう。

ポジティブに考えるのであれば、最初は誰も感心が無いのだから、多少の過激さはむしろ主張をアピールする力として望ましく、後にそれがもし受け入れられる過程に入ったのであれば、戦略を変えて、多数派が受け入れられるようなものに、主張を刈り取る必要がある、ということなのかもしれない。

認知度が向上したと言っても未だ少数派、圧倒的多数派から見みると自分たちを侵す不遜な存在だと認識されてしまうことは避けられない。やり過ぎは禁物。


ここまで考えてみて、そういえば、これは、宗教が勃興して、世の中に広まってゆく過程を説明しているような気がしてきた。

Wikipediaの限界2009/08/18 03:06

/.Jの記事になっていた、「Wikipedia の成長は終盤に入っている」という話についてのコメントの流れを見ての感想。
http://slashdot.jp/it/article.pl?sid=09/08/17/0014215


以前から、いわゆる「要出典」タグが付けまくられたり、「独自研究」の名の下に記事が削除されたりと、その荒れっぷりに残念な気持ちにさせられていた。

ウソを削除するのは正義だと思うけれど、記事の品質を向上させるという名目で頑張り過ぎている素人編集者達に支配されているのがWikipedia(日本語版)の現状なのだと思う。

だから、いくらルールや基準を作ってもダメで、素人達の個性や趣味で議論が進められて、結局フレームになったり、微妙な品質の記事になってしまう。ボランティアベースの仕事では、必ずしも個人の能力が影響力の大きさに比例するのではなく、ただ単に声が大きく、執念深いといった性質で影響力が決まってくるところがある。適材適所にならないことも多い。

むしろ、無償の努力というものを、偏った「思い入れ」を全く排除して公正に仕事をできる人というのはよほど人徳のある人物であり、奇特であると思える。

逆に考えて、ある意味でプロフェッショナルとして編集業務に徹する人を用意するというのであれば、それにはそれなりの維持コストがかかるわけで、Wikipediaがこれまで成長してきたモデル、ブランド(ボランティアベース、誰でも投稿可能、無償公開)と矛盾してしまいかねない。

そういう意味では、それがWikipediaの立ち位置であり、その記事が従来からの百科事典ほどのオーソリティは持たず、Google検索の結果よりは信憑性が期待される記事、というものなのだろう。それが限界であり、そのポジションであればこそこれまで成長してきたと言える。

これから先があるのか、あるいは終熄へ向かうのか。運営者達は百科事典の品質を目指しているのだろうが、それにしては「出典」だけでは権威付けが不十分だろう。

その未来は、ボランティアベースの方向にあるのか、あるいはプロフェッショナルベースの方向にあるのか、興味があるところではある。

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